出来るだけ幅広く←うそつけばか


昔の




2008/8/3
ノンフィクション

yama の発言 :
と言うわけでうつのみや作画を真似てみたが、変化なし
yama の発言 :
だってべつに昔からうつのみやさくが真似てたもん!
coosun の発言 :
真似た上での形だから、真似ても同じか
yama の発言 :
それが辛いんですよ
yama の発言 :
ああ、ここはこういう風にバウンドさせたらそれっぽくなるな!
yama の発言 :
あれ、二年前に確か、、、
yama の発言 :
っていう
yama の発言 :
今回色々見て唯一新しい発見したのが
coosun の発言 :
ふぉう
yama の発言 :
驚きのリアクションで顔を左右に振るのを二回から三回にしても成立するってことです
yama の発言 :
まあ、バウンドの回数増やしても成立するのと同じ理屈ですね
yama の発言 :
すげーミクロ
coosun の発言 :
そうか、、、
yama の発言 :
髪の毛のなびきで悩んでたけど
yama の発言 :
あれは完全に昔と追った道を忘れてただけで
yama の発言 :
今思い出したけど、また忘れます
yama の発言 :
あとは作用反作用のゆりもどしの微妙な原画を実際に描けるようになれば一歩前進かな
yama の発言 :
松本さんのきゅっといく振り向きをできるようになる
coosun の発言 :
あれ出来るといいおなぁ
yama の発言 :
それ出来たら次は金田系でもやってみるかなあ。多分昔やってんだろうなあ
yama の発言 :
なんか資格をたくさんとって楽しんでる人と同じ哀れさを感じる
yama の発言 :
あ、そうだ、今回わかった最大の作画のコツがありました
coosun の発言 :
おお
yama の発言 :
なんと
yama の発言 :
広角でかくと巧く見えます。
coosun の発言 :
おお、あっぱりそうか
yama の発言 :
あと、つけpanより大判でpanしたほうが見栄えがいいですね。
coosun の発言 :
あ、そうなんですか!
coosun の発言 :
しらんかったですお
yama の発言 :
僕が今言ってるのは一般的な作画マニアの完成ですからね
yama の発言 :
慣性
yama の発言 :
まあ、手ぶれ風にしとくとなんとなく、巧く見えるあれができるからですけど
yama の発言 :
つけパンでも上からもう一段ブレくわえるとおっけーのはず
yama の発言 :
撮影でそんなことやってくれるのかわからないけど
yama の発言 :
自主制作ではよくやってたなあ
coosun の発言 :
あるある
coosun の発言 :
アフターってそういう概念だもんなぁ
yama の発言 :
とにかくBGもキャラも1コマでパンしてないと一般的には違和感があるようです
coosun の発言 :
おおお
coosun の発言 :
そうか、、その事ぜんぜん忘れてたお
coosun の発言 :
○さんに教えてあげないと
yama の発言 :
○さんショック受けるだろうなあ
yama の発言 :
あと、これは大分意外かもしれないんですが
yama の発言 :
早い動きの時は2kをつかってさらに速い動きのときは1kを使うと巧く見えます
coosun の発言 :
ええええええ
coosun の発言 :
それは予想外ですお
yama の発言 :
3kだと止まってみえるんですよね。
coosun の発言 :
○さんに教えてあげないと。。
yama の発言 :
ショック受けるだろうな、○さん、、



2008/4/17

松本憲生の作画を「食いたりない」と昔の日記で表現している。
これは主に、kenjiの春以降ナルト以前ごろの松本作画に当てられたもので、
今となっては「食いたりない」が「リアルだなぁ」に変わったものの、
その感覚を思い出すことは出来る。

一時期松本さんは、このくいたりない作画を、担当パートのなかで頻出させていたと思う。
今でも時々みかけはするが、それはある特定のカットで(おそらくそれが要求されるカットで)行うにとどまっている。
これを、言葉で表すと「時間の比率を誇張しない作画」という表現になるかもしれない。
フレームレートは誇張するが、早いところも遅いところも、同じ価値基準をもって描画していく。
まるで実写を見ているかのような感覚を得やすいため、ある意味では臨場感があるが、キャラクターに感情移入がしにくいのだと思う。
どういうことかというと、アニメにおいては、キャラクターが「うー!」と力んだりするところで、そこに尺を使ったり
そこから走り出したりするときは、驚くほど早く動かしたり、そういった感情に依存した時間の誇張が日常茶飯事で行われている。
これはアニメーター自身が、意識的にせよ無意識にせよ、キャラクターの主観的な時間に感情移入して作画しているからだと思う。
見る側からしても、こういった作画には感情が入りやすく、いわゆる「快感」として認識される。
対して「食いたりない」作画は、客観的な視点を持って描かれた作画だといえるかもしれない。
というと誤解を招くと思うが、これは作画している人間がキャラクターに感情移入してないといいたいのではなく、
感情移入した後に、そこからいったん脱却し、ある世界にいるある人物としてその芝居をシミュレートするといった意味である。
カメラマンに感情がないと言う表現が適切かどうはわからないが感覚的には
「遠くから見ている」「世界をただのぞいている」という印象を与えやすいのではないか。
アルジュナの4話の作画はカメラの画角的にも望遠が多用されていて、ますますこの感覚が強い。
カメラに過剰に演技させるのを嫌う人にこういった思想を持った人が多いように思う。
「感情的な意味での望遠感」とでも言うべきものが
一時期の松本さんの作画の「くいたりなさ」を演出しているはずで、
それはアニメの感情表現に慣れた視聴者(自分ふくむ
)からすると、とりわけ異質なものとして写るはずである。
「被写体とカメラとの距離」でなく「視聴者とキャラクターとの距離」。

ナルト30話から松本さんはもう一度変化して、視聴者に強く快感を与えるボリューム感のある作画をしているが
RD,NARUTOのOPにおいて格闘シーンであるのに関わらず、客観的な視点を作画に再び取り入れてるのをとても興味深く思う。
(RDは作品的にリアルな格闘が求められているはずで、そこに齟齬がないのはさすがというか。)

被写体こそ違うものの松田宗一郎の作画においても、これとまったく同質のあるいはもっと鋭利な思想を感じ取ることが出来る。
ジェネレイターガウル2話において画面に向かって噴出す血を3コマで描いている。
(アニメにおいて3,4コマを使うのは画面から比較的離れたものでなくてはならず、
広角レンズで手前を横切るものには1,2コマを使わないといけない、という制約が確かに存在する。これも、主観的な表現の一例。
これは、発想として古臭いものではあるが、それだけにもちろん効果がある。)
90年代の松田さんの作画には3コマを用いたものが異常に多く、
一部の電気エフェクトやビームなんかを除いて、どんなシーンだろうと3コマで描ききっている
またダイガード12話において腕を切り離すシーンでは、排出される水蒸気がベタうちで描かれており、
一枚でぱっと出てきて、その後形が特に変化しない。
これも明らかに前述した時間の誇張を嫌う、リアリティーを追及した作画である。

アニメのリアリティーを追及する潮流の中で、この主観から客観へ、と言う方法論の推移があったのは間違いないと思う。
リアル系、といわれるものがいったいどう定義されるのかがいまかなりあやふやになってきており
リアリティの定義自体時代によってどんどん変容してきているのは承知の上で
リアル系の本質として、個人的に今最もしっくり来るのが古い方法論をいったん洗いなおして世界そのものをフィルターを通さずに表現すると言う部分で、
今後、それが主流になっていくんではないかと予想する。
たぶんに演出的な意味を持ってしまうので、同系の思想をもつ監督や演出家が多く出現することも必須ではあるが。



松本さんの運動量の頂点でのカッティングの法則性についてももっとはっきりしたことがわかったら書きたいっす。

松田さんは色の面の処理とスケールの処理、ローポリ風な画面の演出効果についてまたかきます。
メカ全部描いてるパラサイトドールズ1話、ダイガード12話と、OVAレイアースの2,3話、闘神伝1、ゴウカイザー1
DUAL1,3,7話あたりは見て損ないです。90年代松田作画は、超リアルアニメです。慣れると気持ちよくて仕方ない。



2008/4/12

yesプリキュア5gogo第10話を視聴。
女の子たちが草むしりしているところが、ビックリの巧さ。
引き抜こうとして、後ろに倒れこんでしまうあたり、原画の理想的配置のしかたです。
こんだけの動作に四段階くらいタイミングの緩急をつけているのはちょっと密度がすごい。
ピースからつけパンするカットもとてもかっこよいし、足のアップもやばい。
「みんなが心配してるときに」と呆れ顔でいうカットの緩急の付け方、これぞ東映って感じ。

次にラストの戦闘シーン、敵が背後に着地してから腕を取って投げ飛ばすまで。
こっちも、あらゆる意味で正統的で汎用性の高い巧さ。エフェクトもバランスがよくて。
うらやましいー、と強く思ってしまいます。

どちらかが、あるいはどちらも林祐己さんの仕事と推測します。(確証が得にくいけど、後半の戦闘シーンはやってるはず)
この方も、若手最強レベルの能力値を持ってます。期待してます。
ぱっと見の印象だと磯光雄と山下高明の交じり合ったイメージの動きと、
とてもスタンダードな絵の巧さを合わせている感じです。

僕自身、これを目指すのもいいなあといつも思わされる対象のひとつです。
最近、東映っぽいと言う表現をしてしまうことが多いんですが、
山下さん、西田さんあたりの作画のことを主に言っているので人によってはぴんと来ないかもしれません。
端的に、全原画系と中割系、タイムライン系と演算系とといった区分になると思いますが(後者が上記の作画に当たります)
行きたい方向としてはやっぱりこの二つに大別されますね。

りょーちもさんは二者どちらもイメージすることができて、状況によって使い分けられるというタイプ。
最近演算系に偏ってる感じが少ししますが、これもひとつの理想系

さらに両者の区分が付きがたくなって混在してるのが、押山清高さん。
過去の日記で本田さんがそのポジションにいる旨をかいていたことがありますが、
それに近い完成度を持っています。
動きそのものとしていえばむしろ本田雄さんよりうつのみやさとるさんをそこに配置すべきかもしれません。

あくまで各人の演出的な部分を抜いた動きの話ですが、
うまいだけじゃなく、変化が今後ありそうな人たち。
時間とともにうつのみやさんの後継としての磯さん、中村さん、松本さんを凌駕してくれるんじゃないかと言う期待があります。
あるいは、うつのみやさんが提示したもの以外の価値観を提示してくれるのが一番うれしいけど、演出的な側面の探求に行ってしまうかな。

こうやってみると、うつのみやフォロワーでない動きの巧さが存在できないのが、ある意味作画の行き止まりかもしれません。
(金田系はどうしたと言う反論は無意味なのでやめておいてください)

とりあえず若手はこのあたり追って行きます。
おもしろい人、増えてきました。



2008/3/28

背景動画でカメラがフォローしてるカットになぜあそこまでの快感を感じるのかと言う問いに答えが出つつある。
おそらく、一定の速度で流れる背景がメトロノームの役割を果たしていて、時間感覚を補強しているのだと思われる
中村豊等の空間系アニメーターが手前のなめものをやたら描きたがるのは空間と同時に時間の表現も行っているとみて間違いない。
画面のどこかにベタうち、等速の要素を組み込んでおくことで、それ以外の部分が変則的なコマうちでも、
画面内の時間が一定であると言う錯覚を起こすことが出来る。
これはカメラワークにも同じような効果があって、
4コマで作画されていても1こまでつけパンしてると気にならなくなるように、
こういった「相対的な錯覚」による印象の強制操作が、中村作画の本質ではないだろうか。



2008/3/17

岸田隆宏さんの作画したアニメをいくつか見せてもらいました。
ヒートガイにそもそも見てなかった話数がいくつもあったので「やっべぇぇぇ、これやっべぇぇぇ」と久しぶりにマニア冥利に尽きる感。
岸田さんは文句なく「タイムラインが見えてる系」です。
ダイスケとボマの一騎打ちでボマが切りかかるところとか、演算して描くやり方では決して描けないものです。
思うに基本演算系は前の絵と次の絵がある程度違う絵であることと、ある程度同じ絵でもあると言うところに
作画時のよりどころを得ている気がするので、動いてるところと動いていないところの触れ幅が狭いんじゃないかと思います。
岸田さんがや松本さんの作画を見ていると、動いていないところは3Kなのに関わらずほっとんど同トレス並みに動きません。
逆に動くところがすぱーんといく感じ。
動かないところをとめるんじゃなくて、
変わらず3kという同一の時間軸の中で、「動かない動き」を描いているシーンを見ると、やはり臨場感を感じますよね。たまりません。
的確な抜き方とつめ方でよどみなく動かすほうが実写の人間をコマ送りしたときの感覚に近いんですけど、
実際に緊迫した状況に身をおかれたとき、目の前の人間の動きは多分そうは見えないんじゃないかな。印象のデフォルメですね。

一番感動が大きかったのはワンダーベビル君。これは確かに見てない人は人生損しています。
キャラの形がみんな愛らしくて、すばらしい。岸田さんのグラフィカルなエフェクトがここまで炸裂しているのもはじめてみました。
恋風のEDの世界で一本やった感じですよね。松田エフェクトに似てるけどこれも特に両者に関連はないんだろうな。現実の印象を観察したと言うこと以外には。
見てる間中、「これや、この画面や!たまらんでぇ~」と麻薬中毒みたいなことを言いいまくってしまいました。
動きも全部コントロールされつくしていて、まったく隙がないのに
線の太さがころころかわたり、手が切れてたりはしごが切れてたり、妙なところで一瞬止まったり、面白すぎますよね。
岸田さん、松本さん、鈴木さん、松竹さん、このへんの人たちの画面を見ての、
「好きだ、この世界」って気持ちがほとばしる感じはほかの巧い人とも一線を画す感じはあります。それは昔から変わらない。
みたいのは、これだ!っていうの。あああ~ほんとにすばらしい。
話の内容とか関係ないですものこの面白さ。でもこれ、マニアの袋小路にはまってるってだけのもんじゃなくて、結構本質的なものに思えます。
誰かまたこれやってください!

推測なんですが、
この人の動きって、素体のラフを見ただけじゃそういう動きになるてきづけないんじゃないかと思い始めているんです。
つまり原画に、絵にするってことで、初めてタイミングがわかると言うか。絵の重要性のほうがでかいんじゃないかあ。
だから僕がラフでいくら描き続けても、こういった効果が出ない(あるいは出ているが気づけない)のではないかなと、
、、 「天才」って言葉を軽々しく使うなと叱られたばかりなんですが、
マウス時代からの自分の動きの質の進歩のなさを見ていると最近少し絶望を感じます。



2008/3/04

前回の日記で近くのアニメーターさんからいろいろご指摘を受けたので
一部注釈を入れました。原文をあえて書き換えずに問題点を浮き彫りにして、校正時の指標にします。
なんというか、今回は意味不明にするつもりでなかったので、記述的な態度としてはこれは許されんよなぁと思う。

昔からもっともらしいことを捏造するのが好きなもんで
そういう捏造創作的態度とごっちゃにしながら書いたのがいけなかった。次からもうちょっとそっけない文にします。
捏造したり、捏造されたものを見るのは「わけのわからないものをわけのわからないものとして楽しむ」のも、
あるいは、それ自体がある人たちへの批判になったりするのも面白い。まあタモリだよね。



2008/3/02

ネット上のいろいろな若手の人と会って話をしました。
いろんな人がいます。
自分より年下の人がそろそろ(ぞろぞろ?)出てきて、嫉妬できるのがうれしかったり
ありがちな経験をなぞることに快感を感じ始めたのはいつからだったかなあ、昔は世間話嫌いだったけれど、今は楽しいです

その場で何かを伝えようとするのに、また結構しどろもどろになるんだけど、
ここで自己完結してるよりもはっきりと理屈の全容を把握できる。人に伝えることは自分に伝えることにもなるみたい。
自分の考えていることが(あんなに支離滅裂なのに)けっこう伝わっていて、それはとてつもうれしかった。。

そして果てしない真摯な自己研鑽っぷりに感動して、少し自分の事を思い返してみた。

かつて自分が水滴を眺めようとし、スーツの皺を見ようとし、白い息を見ようとしはじめたとき
まず「努力してる、努力してるぞォ、努力してるから勉強しないでアニメ見よう」てのと、
「どうだとち狂ってるみたいだろう!俺の情熱は本物だからこんな熱心に研究しちゃうんだぜぇ!」
というすばらしく健全な理由があった、確かそれは意識的だったと思う。
そうやっているうちに蓄積されるものは確実にそうされていった。それも確信していた。
こういった各種研究行為は現在でも継続している。でも減った。
業界入ったころに比べて目が死んできてるwなんていわれたりもするけど、それはいいとして、
これでは僕はだんだんと、奔逸った情熱を欠いていってるようではないか。
他を圧倒しようと、しのぎを削るような、強く示すような。
それを認めたくなく過去のGIF見て悪あがきしている最近であるが、、、
仕事を始めたことで上の二つの理由がなくなってしまったからなのか。

まさか、僕にとっての「情熱」ってのは防衛機制そのものってこと?
その社会に適応した瞬間に、すべての欲動を失うなんて、身に覚えがありすぎてぞっとした。
逆に言えば絵が下手なうちはまだ大丈夫、動きに逃げてさえいれば。
「ぼくはいびつでとがってるんでやーらかくてなんとなくまぁるい感じになりたいですぅっ!><」
↑てなことを思っていたが、構造上無理ってわけだな。
僕と同じタイプの人間が現れたときにどうやって逃避するのか、ガクブルである。

と、衝撃の事実が判明したが、僕だってまっとうな作画愛は持っているつもりだ。
まだまだ理想にたるといえない以上、そう言われるべき人に「初々しいなあ」と笑いかける余裕は、さすがにない。


で、突然だけど作画の話。
COOSUNと作画本だそうかなどと考えているため、それの予行演習として軽くあしらっていただきたい。

絵の要素を極力抜き去って動きそのものの思考論理をあらわにしていくと言うアプローチ
(付け焼刃的に作画的エポケーといっておこうw)を、
きづけばずっとしてきているが、ここらでもうちょっと極端に煮詰めてみようと思う。どろっどろに。

さて、大反響の1/19の日記であったが下段の「たらら」のように動きの観念的な感覚を養うのには、
単純な記号でのシミュレーションで事足りると思うし、試行の回数が跳ね上がるのでおすすめしたい。
どこかの学校でやってるかもしれないけど(やってないだろうけど)、 もしいきなり紙を渡されて五桁の数字でアトランダムな数列を記述しろと言う課題が出たら、いいなあと思っている。
以前お絵かき掲示板のほうで一度書いたことがあったが、数列を作るときの思考論理と
アニメにおける、破片等の配置はもちろん、シート上のリピート時などのタイミングの散らし方や、
さらにマクロな視点でのカットのつなぎ方を考える際かなり近似的な思考をしていると思える。
今回はそれにもうひとつ階層を引き上げて、多重入れ子構造になっている『時間と言う箱の中でのランダマイズ』についての解説。

たとえば10桁。1234567890 3334445555などと並んでいたら、これは全然ランダムでなく、ある規則に沿って並んでいるように思える。
エフェクトや人のポーズを書く際に、第一に忌避すべきなのがこういった感覚である。
シンメトリー的といってもいいが、規則的に並びすぎてる物体は、自然物には見えにくい。
絵においては上記の数列は生理的に気持ち悪く映る。演出的にはありだが、原画単位でのアニメーションの快感とは、
ランダムをどう形作るかと言ういわば自然物を描く芸術であるのではないかと考えている。

*↑の文章だと誤解して当然だけど、これはあくまで本当の第一段階で(左右のバランスを妙にシンメトリー的に形作ったりして、ポーズが不自然になったりしている段階。)、 後の文章で意味が逆転します。
本来言いたかったのは奇跡的な偏りをアニメに取り入れるべきといった意見なので
この段落自体必要なかった気がひしひしと……
フラクタルを調べろ!との指摘をうけて、WIKIへ。むしろ言いたかったのはこれです。メンガーのスポンジ萌え。
「原画単位でのアニメーションの快感とは」と言っているけどここは静止画の問題として割り切ったほうが適切だったかもしれない。


0835779086
てきとうに打ってみた。かなりランダムな数字に見える。(数列からあらゆる規則性を抽出・検討し、ランダム度を表してくれるアプリケーションってない?)
この「適当に打つ」という行為を、アニメを作るときに行えるようになることは、一番基本的で一番重要なことだが、長くなるので後述する

むしろこれはイラストのバランスのとり方の話になるが、
イラストの場合三次元(イラストは二次元だが、描画者が意識のステージに描くべき対象を具象化させている時点では三次元であると言える)
的な意味に限定されているために、四次元的発想が必須な『時間軸の上にこのランダムさを搭載する』という感覚がなかなか養いにくい。

*次元の意味を調べてから使え!といわれたのでWIKIへ。
けっこう忘れてるなぁはともかくここは割と通俗的な意味での三方向+次元=四次元としてとらえてほしいです。
単に、平面+時間軸って言ったほうが適切だった。ここは反省。


イラストをうまく書ける人なら、この意識の転換をするだけで、うまい具合に偏りを散らしたアニメーションを作れるようになるはずである。
逆に、イラストにおいてのバランスをとるのが下手であっても時間軸上の配置の仕方が抜群に巧い人間も存在する。

さっき言った数列を、どのようにアニメに適応させていくかというと
まず、数列の桁数を解像度(絵の密度)、数列の数を原画枚数に対応させることが出来る。

*解像度ってのがとてもわかりにくい。絵の密度と単に表現したほうがいい。
絵の密度って感覚的にはわかるんだけど説明しようとすると難しい。
立体としてみたときの表面積ってのも違う気がするし、
強引に表現すれば「(主に動きに関すること以外の)その絵がその絵としてあることの必然性の量」かな?

先ほどの10桁の数字はどんなに適当に打ってもおそらくランダムになると思うし、
ぱっと見違いがわかりにくいので桁数を…5,4,3,2とさげていく。
0-9まであるサイコロを二回振ることを考えてみよう。どういった目が出るのか、考えていくと、『大体の場合』
29 85 49 など、簡単に言えば[隣り合う数字同士が別の数字]であることが考えられる。これが二桁の数字のランダムさのよりどころになる。
おそらくこの三つの数列は、ランダムの度合いで言えば同じ『ぐらい』であり、飛びぬけたものはない。

だがしかし、何回も振っているとどうだろうか。確率論的には、十回目くらいで66 55 44など同じ数字が連続するケースが出てくると思う。
なんとなく、これは先ほど言った、第一に忌避すべきと分類された項目の数字に類似しているように思われるが、実は違う。
これは、十分の一と言う、消して低くない確率で起こりうる目である。
当然、一回の試行としては不自然で、何らかの意味を感じるが、十回以上振ったときに、
もし一度も入っていないのであれば、それは逆に『ランダムにしようと言う恣意的な不自然さを包含している』と言わざるを得ない。
サザエさんのじゃんけんは人が考えていることを証明する統計(すなわち三週連続で同じ手が出ることが極端に少ない)
を昔ネットで見て興奮したが、それと同じこと。
他にも34 67(連続する数字であるケース)62 48(偶数の組み合わせ)37(素数の組み合わせ、あるいは足して10になる)etc
意味づけはさまざまなケースで行え,こういう数字をかくのは一瞬を切り取る、
『絵』においては避けるべき表現だとされているように思う。
アニメに関して言えば、一枚の絵にとらわれるあまりに、時間の概念(確率)を無視して、
目先の自然さにすがっていると言う状態で、アニメを作る際にはまず、この発想から脱却する必要がある。

今は、イラストとアニメーションということで二重構造で示しているが、
これに演出と言う有機的な側面を加えることで、桁数、試行回数、に新たなるエレメントが無限大に加わり、
ランダムにすることが出来る概念は、多重入れ子構造で存在する。
宮沢康紀、小川完などは明らかにこういった有機的な部分にまで、その発想を侵入させている。

*これはまあわかりにくいんですけど具体的に言えば
まず一枚の絵にランダムさを含ませることが出来、次に動き。
そこから行動線を逆走して色、尺、キャラの位置関係、BG、話って感じに不規則に出来るものの要素がいっぱいあるって意味です。
これらが互いに絡み合って、さらにこことここが不規則なら、ここは安定させたほうが 全体としてより不安定になるみたいにどんどんエントロピった画面になっていきます。 これは別にそうすればいいって言ってんじゃあないんだけど、
そういう演出は不安になったりしてドラッグムービーっぽくなるから好んでやってる人はいるだろうって話です。
上の二名が実際そうかって話はなんともいえないけど、割とそういう発想をしてるんじゃないかと推測します。
とにかく人の意識に引っかかる部分を無理やり増やしていくという発想ですね。


もっと具体的な凡例を出せば、四次元の空間を想定する以上、
イレギュラーな事態(たとえばガラス面に反射する光のパラメーターが極端に上昇して一瞬だけ白く飛ぶような現象である)を想定した、
画面を作れることがアニメーションに与えられた権利であり、醍醐味なのではないかと考える。(ただし義務ではない)

そして極力イラスト的な絵の意味をアニメーションから排斥しようと言う思想を持ったアニメーターは
一枚で見たときの絵のぞんざいさ(桁数の少ない数列)を、むしろ主張していくようなかき方をしてしまう。
これは無垢な視聴者がアニメを誤解しないようにするための非常に親切な試みであると、危険な思想を持つアニメーターは言うだろう。


試行の回数が原画枚数に相当する以上、枚数が多ければ多いほどそれはランダムに、自然に見えることになる。
リピートと言う手法が自然に見えないのは試行回数が決まっているため、に無限に続く時間と言うものを演出することが出来ず、
そこに満足なランダムさが着床しにくいといった理由がある。
もっともわかりやすく、最も万人に効果的な書き方が「リピートなし」であることが、以上の理論から導き出されるのだ。
ただし、それはリピートなしがもっとも優秀な描き方であると言う意味ではまったくなく、
むしろアニメーションの原則にのっとれば、あまりにも安易過ぎる手法であると言える。ようは、やる気さえあれば誰にでも出来るのだから。
松本憲生や磯光雄などリピートのエフェクトにおいても本来の自然的エフェクトがもつ無限の時間性を表現できるアニメーターは存在する。
それはあらゆるその対象が持つ動的特性を分析した後、最小公倍数を見つけるがごとくもっとも効果的、
最も省力的に表現できると思われる部分だけを抽出し、少ない試行(枚数)で表現できると言うことである。
先のサイコロの例を出せば六回に一回同じ数字が連続するなら、
六回の試行で一まとめにしてリピートにするという発想である。
さらにループする一連の動きにいくつかのパターンを作り、シート上で時間的なランダムさを演出するなど、非常に高度な演算が行われていることが見て取れる。

話を戻すが現実世界の確率に近づけていけば理想的なランダムさになるわけではないのは自明で
各アニメーターごとに持つ、この確率の解釈のしかたの違いこそ、
各アニメーターの動きの特徴を一番大きい意味で決定付ける部分になるのではないかと思う。
つづく


2008/1/19

煙などが立体的に描かれる必然性は観測者と対象の距離によって決定される。
雲は近づけばただの霧であるように規模の小さい、それこそ触れるほどの距離にある煙を
物体として処理してしまうちぐはぐさには虫唾が走る。

煙を描こうとするのではなく、煙が巻き起こっている世界を描こうとすること
常に単一光源を意識された美しい立体
余計な中割など不要とする無機質な発想
まるで世界にしか興味がないよう。情感は欠如。
巨大さ、と言う服をまとった時間を操る 立体構造よりも色の面、俯瞰したときの相を取る
物理世界は段階ごとにいくつかのフェーズが存在する
”われわれが普段目にしている規模”がテクスチャとしては無限大であるため
どうしても個々の物体の質感にとらわれがちになるが
(逆に極小世界では極大世界と同じような法則が支配している)
規模が拡大するほど、物体としての特性は雲散し、単なる「総体」としての様相を呈すことになる。
そうなれば、水、煙、雪、石ですら大概同じ理論に基づいて物理演算が可能になる。
規模の大きいシーンばかりを担当するのは彼がそういった総体としてのフェーズを特に好むからだろう。
小さきものに興味などないのか。


過剰にランダマイズされた影面、コントラストと明度、ガンマ値、オフセット露出と言う撮影領域への侵犯、
色差のコントロール、触ったら形が変わりそう、ふにふにしている、やわらかい、さわりたい、ざわれそう
単純化されてはいるが、人間に効率よく刺激を与える要素を決してその手から漏らさない。
あたかも絵でも動きですらなく、眼球にタイムラインとともに焼き付けられる
すべての印象を紙に現像しなおすことを生業としているよう。それはアニメーターの仕事か?


彼の描き方は止揚に基づいた部分が薄い、いったいどこからその着想を得たのかわからない
うつのみやさとるによって一度は地動説が受け入れられたのに、
磯光雄を誤って解釈した人のせいで天動説が息を吹き返してしまった。
痛みもあるでしょうが今一度パラダイムシフトしましょう。みなさん。



2007/1/19

すでに地位は築き、志をともにしたとして追いつくものもおらず
後継はただ賛美しかせず、仮初の自分にすら気づけない。
やがて仮初に侵されていったとして、
自ら尖らせた刃に意味などないことを悟りきり
今度は自ら錆付かせてしまう。誰も鋭さに気づけないのなら磨く意味もないと。
自殺

あるいは古臭いと悟りつつもすでにきずきあげてきたすべてを
いまさら理想論をちらつかせた若者に謙譲するわけにも行かない職人としてのプライド。
やるならスクリーンの中ででもやってみろといわんばかりだ。「どうせお前にかなうはずがない」
そこは常に同じ土俵だ。

あるいはすべてを凌駕するほどの孤高の高みにたどり着いていながらも
ただ純粋に欲求のみに素直であり続ける
少し目の曇った若者なら既に忘れているくらいの。恥ずかしいくらいの、単純さ。
言葉でなく、姿勢の伝播。



2007/1/19

尺、限界、可能性どれだけ長く持続できるか、集中できるか、覚まさないでいられるか
カット割ると言うことは、そこで限界だから、酔いが回らないから
回転軌道、逆転、止めないことと止めること、和音と不協和音
一瞬指向性が認識できなくなったり、認識が追いつかないことや。
2こまと3こま、あきれるほどの放任と過保護、説明しなくても理解しろ?という姿勢
単にそこに居る(ようにわたしにはみえる)きゃらくたーへの憧憬)「このひとつよい!」
二者間のコンマの駆け引きと、違うやり方で殺しあうその二者の交差
時間、止まらない、コントロールしない、されていない、生の時間、生時間
さりとてラガー時間でも可。通常ありえないロスレス圧縮、
リアルタイムではなし得ないそれだけのことを仮構であるがゆえ圧縮可能。
そうだ1秒に一週間だ!それだけ圧縮されていれば見る側は時間の奔流のように受け取ることが出来る。
移動距離、表すための長大なBGセカイ。その物体がいかに速いかと言うことを表すための空間、時間制御
1こまと4こま。時間を説明するための、あるいはテクスチャを説明するための?
そもそも原画の量は物体の小ささに比例する。ん?素粒子が一番原画過多か?ひも?
中割り不要論に発展するこの発想は無機的過ぎる。
僕らが見てる世界はあいまい。理論上1,2,3,4が共存できるとてそれが違和を生むこともありえる。
小手先王か?それとも効率主義者か?

たーーーん、たらららら、たら、たら、た、、た、た、、、た、たん!

現状彼の最長持続時間は6秒、期待値が波打っていられる時間、その間だけ、そのキャラクターは自由になる。
波動関数の収縮みたいだ広汎性の領域だもはや説明など不可能だ
本当に楽しい!、こんなもんぐぐってもでてこないしな!



2007/10/22

お笑いの中ではモノマネがすきです。
特に最近増えてきた、個人でなくある共通イメージのモノマネは、むしろ役者よりモノマネ芸人のほうがリアルです。
そしてイッセー尾形。唯一、芝居ごとで現実と同じ痛々しさや生々しさ怖さを感じた一人芝居。見てられない感じ。
どうせやるならそういうことを、現実の狂気を怒りを悲しみを憎しみを。
アニメーターは実際モノ(物体)の真似もやるから、
役者よりもモノマネに近い、と思いますけどね。

最近のアニメ感想:

神霊狩は予告が面白すぎる。凄く僕好みな予感がします。デザインが岸田さんなら……

電脳コイルは作画がよすぎる。もう「これが巧いアニメーターの芝居だよ。」って芝居が当たり前のように出てくるのでいやになります。
でも僕が放送前にコイルに期待してたのはこんなにきれいな作画じゃなかった気はするんです。
もっと感情の発露が見たいんですけどね、目を背けたくなるような後ろ向きな。

クラナド3話、パン食べてるところが巧い。
一言でさっぱりした竹内さんて感じ。
原画で動くポイントをちゃんと置いてるのがこってます。